生い立ち1970年代生まれのわたしは愛知県岡崎市で生まれました。
岡崎市は徳川家康の生誕の地で観光地として岡崎城があり、人口30万人の中都市です。
八丁味噌なんかが特産物として有名です。
家族は父、母、兄がおり小学生の頃に祖母(わたしが大学生の頃に他界)が同居するようになりました。
父はわたしが中学生の頃、今まで勤務していた貴金属店を辞め独立しました。
母も自宅にて子ども達にピアノを教えることを仕事としていました。
兄は高校卒業後、アメリカへ留学し、卒業後は東京で就職しました。
わたしはと言いますと、現在は長野県松本市に在住しております。
わたしの家族は、世間の目を気にしたり体裁を重視するような雰囲気の家族ではなく、どちらかというと自由な空気が家族内に充満していたように思います。
受験勉強を強いられたり、付き合う友人を限定されることもありませんでした。
家族が仲悪くなることもなく、口喧嘩や口論があったとしても一時的なものものとして終わり、
深い確執に至るようなことはありませんでした。
わたしの家族は社会的地位や貧富によって人づきあいのあり方を変えるようなことはなく、
そのこともあって常に自宅には老若男女、国籍を問わずいろいろな人が数多く客人として遊びに来ていました。ですから、どちらかというと楽しい家族であったと思います。
なぜ、こういう家族でわたしが引きこもりになってしまったのか、今だにわたしにもわかりません。
さて、そんな家族の中で育ったわたしですが、わたしの性格は内向的で真面目なようです。
学校でもあまり目立つ方ではなく、少し天然ボケが入っていて浮いた存在でありました。
この傾向は今でもあり、わたしは集団やグループの中でのコミュニケーションが苦手です。
保育園、小学校、中学校とそれなりに友人はいましたが高校入学を境に友人は少なくなっていきました。今は友人と呼べる人は一人もいません。
部活動は小学校はバスケットボール、中学校は野球(レギュラーにはなれない)をやっておりまして、高校では弁論部に入部し、多少文章が上手であったせいか学校代表として弁論大会にでたことがあります。
高校までは少々風変わりなところはあるものの、傍目には普通に学校生活を送れており、
親や教師を困らせることはなく、担任教師の評価も決して悪くはありませんでした。
しかし、わたしの心は常に自分に対して自信を持てず、劣等感を胸に秘めていました。
わたしはいかなる人間よりも劣っていると感じており、
わたしの家族もいかなる家族よりも劣っているとも感じており、
わたしは生まれ持っての劣等人間だと思っていました。
そして、わたしはこの生い立ちにおいて第一次反抗期も第二次反抗期もないいわゆる「良い子」でした。
そんなわたしが「良い子」ではなくなったのは高校を卒業し大学に入学してからのことでした。

岡崎城
大学入学わたしが引きこもりへと至る発端は大学を中退したことから始まったように思います。わたしは高校卒業後、工業大学に進学し機械工学を学んでいました。機械工学を学んだからといって特に機械いじりに興味があるわけでもなく、将来機械屋になりたいという希望もなく、ただ「なんとなく」という理由だけで進学しました。しいていえば、数学や物理が比較的得意科目だったということが挙げられるかもしれません。入学したものの、何かしたいこともなくアルバイトをしてキャンパスライフを謳歌したいという欲求も薄く、ただただ難しい機械工学の講義を受け、落ちこぼれないように必死についていく毎日でした。わたしは、子どもの頃から空手をやっており有段者ということもあって、空手部に入部したのですが、そのクラブ活動のみが無味乾燥な大学生生活の中の潤いだったと記憶しています。「自分は何をすべきなのか」「自分は何がしたいのか」「こんな生活は自分が望んだものではない」と悶々とする日々が続き、1年生の夏休みが終わると、こうした苦悩は極まり機械工学ではなくもっと別の分野の学問を学びたいと言う欲求に駆られるようになりました。今でも、鮮明に記憶しているのですが、わたしが受けた最後の講義は「生産プロセス」という講義で、この講義を終えた後、「退学しよう」とはっきり決意いたしました。それ以降は講義にでなくなり、学校には部活だけに出てくる毎日になりました。しかし、そんな毎日は長続きするはずもなく、部活からの帰りの電車でばったり級友と出くわし、「最近、講義にまったくこないが一体、どうしちゃったんだよ、、」という話になったのです。こういうシチュエーションというのは、穴があったら入りたい心境になりますね。でも、入る穴もなければ逃げ出すこともできないので、「なんだかアメリカ旅行に行こうと思ってね」となんだかわけのわからない理由を話していました。結局、講義は全く出ていないのに部活だけは出るというのも、やはり人目が気になるもので、部活も辞めることになりました。しかし、部長に直接会う勇気もないため電話で学校を辞めると伝えたんですね。部長の「えーー!」という電話の向こうの驚きの声を今でも覚えています。講義も部活にも出なくなったものの、退学届を提出する勇気もなかったので、そうした臆病さのために籍だけは大学にありました。
浪人生活こうして大学には全く行かなくなったんですが、わたしには別の分野の勉強を大学でしたいという気持ちがありました。歴史小説を好んで読んでいたこともあり、歴史学のある大学に再び入学して勉強したいという気持ちがあったんですね。そのため、自宅で浪人することを決め、参考書を買ってきて受験勉強をする毎日になりました。その年の受験はもう間に合いませんから翌年の受験に備えて猛勉強をしました。そして、大学から留年通知が来たことをきっかけに教務課に退学届を出すことにしました。これで完全に大学とは縁を切れ、浪人生活に専念できる条件が整ったわけですが、わたしは予備校に通おうとはしませんでした。理由は、人の集団の中に入っていくことに不安と恐怖を覚えたからなのです。極度の不安と恐怖でした。自分の部屋だけで一人で勉強している環境が変わることが何よりも嫌でした。親からも予備校に行くよう再三言われましたが、わたしは結局は予備校には行かず、部屋の中で一人で受験勉強をすることにしたのです。 しかし、一人で自宅で受験勉強をするというのは、非常に大変なもので全て自分の意志だけにかかっているのです。モチベーションを維持することは極めて困難で、何度も勉強を放り出し自宅でブラブラ過ごす状態になってしまうこともあったのですが、その度に家族の励ましもあり紆余曲折しながらも受験勉強を維持し、無事大学受験にも合格することができました。ただ、歴史学部が第一希望だったのですが残念ながら不合格となってしまい、国際関係の学科に合格して落ち着いたという感じです。しかし、それでも、わたしにはこの宙ぶらりんの生活から脱出して大学生活を再チャレンジできることに喜びと安堵感を感じました。家族もまた、わたしと同様に大変喜んでいました。
大学生活 やっと二度目の大学生活への切符をつかんだわたしは、4月より県内の大学へ下宿生活をしながら通学を始めました。この時点でわたしは20歳になっていました。周囲はみな現役大学生のため、わたしは他の学生よりも2年遅れての再スタートとなったわけです。下宿先も昔風の古いアパートで、同じ大学に通うM君とも親しくなり、放課後は一緒にカラオケに行ったりお互いの部屋を行き来したりして、しばらくはそれなりに楽しい生活だったと思います。また、趣味で音楽もやってみたかったのでロックバンドのサークルにも入りました。友人作りの苦手なわたしは、サークルに所属することで何かしらの人間関係を作りたいという思いもありました。しかし、このサークルの活動も長くは続くことはありませんでした。
入部~退部さて、このロックバンドサークルも3か月ほどで退部してしまったのですが、どうにも合わないものがありましたので、辞めたことには後悔はしていません。入部するには儀式みたいなものがありまして、「入部の意志を確認する」ということで、会議室に呼ばれ先輩部員数十名に囲まれ、椅子の上に立たされ、怒鳴り声での自己紹介を求められました。表情とか声の大きさで「やる気」を見るということらしいのです。そして、怒鳴り声で自分の名前を最初に言うと、間髪入れずに周囲の先輩達から「声が小せぇ!ふざけんじゃねぇよ!!もっとでかい声だせぇ!」と次から次へと罵声を浴びせられます。罵声を浴びせるのが目的らしいので、どんなに大きな声をだしても怒鳴られます。そして、それ以上の大声を出すなんてことは人間の声帯の構造上無理ですから最後には拍手されて入部が許可されるという段取りです。ですから、わたしもこれは儀式だからしょうがないということで、大声を出して入部することにしました。それに、同じ学部に友人が一人もいなかったものですから、友人が欲しかったというのも理由の一つでもありました。しかし、こういった儀式が、以後、度々あり、どうにもこのサークルのノリについていくことができないため、3カ月で退部することにしました。
不登校さて、大変な苦労をして退部することができ、しばくの間は解放感があったのですがそれも長く続くことはありませんでした。退部はできたものの大学には在籍しているわけですから、部員とは顔を合わせることがあり、苦痛でもありました。また、サークルから解放されると同時に友人のいないわたしはキャンパスの中で孤立することになりました。ある程度、自立した大人にわたし自身成長していれば、自分なりの目標や趣味を見つけて充実した学生生活を送ることができたと思うのですが、当時のわたしは充実したキャンパスライフを送るにはあまりにも未熟でした。ただ、ひたすら孤立感に苛まれ孤立していることのへの人目も気になり、大学に通学することで自分がいかに惨めで無力な存在であるかという現実を突きつけられる気持ちでありました。自意識過剰とでも言うのでしょうか。大学に行くことは苦痛しかなく、次第に授業も休みがちになっていきました。こういう時って、自分に言い訳をして休んでも良い理由を見つけ出すんです。最初は、「一度ぐらいなら休んでもいいや」と言い聞かせ休むのですが、こういうことを一度すると一度だけでは終わらないのです。休むことが二度になり三度になるという感じで抑制が徐々に効かなくなっていき、最後は捨て鉢になって「どうでもいい」と最大の言い訳をして全く大学には行かなくなりました。

大学に行かなくなると、しばらくは解放感みたいな安堵感はありましたが、やることが他になく自室で過ごすことが多くなり、テレビをあまり見ないわたしは本を読んで過ごす時間が増えました。落合信彦とかヒトラーの「我が闘争」とか金賢姫の自伝とかいろんなジャンルの本を読みました。いろんなジャンルの本を読むことでそれなりに世界も広がったような気がしましたが、生活は乱れていき、昼夜逆転の生活になるにはそれほど時間はかかりませんでした。夜から翌朝の5:00頃まで起きて本を読み、その日の夕方頃まで眠るという生活です。こういった夜型の生活になってしまうのは、世間の人達が活動している日中に自分だけが何もせず部屋に籠っていることに後ろめたさというか、惨めさを感じたことも大きな理由の一つです。みんなが活動している日中は死んだように眠ることで、わたしは惨めな自分から逃げようとし、みんなが寝静まっている夜中に起きている時間にわたしは一時の癒しを感じたのです。外から聞こえる、人々の声、車の音、日の光さえもがわたしを惨めにさせるサタンのように思えました。しかし、こうした現実から逃げきれるわけがないことはわたしには十分わかっており、わかっていながらも何もできず、無力な日々を送っていったのです。そして、逃げきれなくなった時、わたしには究極の逃避にすがろうと考えたのです。それは、自ら命を断ちきることでした。わたしは、自殺という発想を得た時、不思議な安堵感に包まれたのを今でも覚えています。自殺とは完全な敗北宣言であると同時に、生き地獄に対する勝利宣言でもあったのです。そして、引きこもり生活をしていることも、自殺願望があることも学費を支払う親は何も知らず、2カ月が過ぎていきました。 さて、秋口から始まった引きこもり生活も気づけば雪の舞う季節と代わり、正月休みになりました。こんな状況のわたしはとてもじゃないですが帰省する気持ちには全くなれなかったのですが、かといって帰省もしなければなんだか怪しまれそうな気がして、致し方なく実家に帰ることにしたのです。後ろめたさ一杯の帰省でした。実家に帰った時の記憶は残念ながら全く残っていませんので、ここでは記すことを控えます。
正月休みが終わると、いよいよ大学の新学期が始まります。親に大学に行っていないことを話していないわたしは、家に居座ることもできず大学に行くふりをしなければならないのでした。そうです、リストラされたサラリーマンが家族にそのことを話せず、一日中公園で時間を潰すのと同じです。わたしは時間を潰す場所として図書館を選びました。大学に行っていないわたしには電車の定期券を買って大学の図書館で時間を潰すなんてことができるはずもありませんので、自宅から少しばかり離れた図書館で時間を潰すことにししました。しかしながら、図書館は10:00からの開館ですので、大学に行くふりをして朝早く家を出ているわたしには、図書館が開館するまで時間を潰す場所が必要なのでした。困ったわたしは、原付に乗り市内をグルグル回って時間をつぶしたり、隣の市である蒲郡市まで行き海なんかを見に行ったりして時間を潰しました。途中、蒲郡市のガソリンスタンドにガソリンを入れに行った際に店員より「遠くから来たなぁ」と話しかけられ、わたしは自分が大学に行かない後ろめたさから、なんだか大学に行かないことを店員に見破られたような感じがし、「ええ、、、」とだけ返事をした覚えがあります。その当時のわたしは、そんな何気ない一言にも心が傷ついたのでした。その後、岡崎市に戻り図書館で時間を潰し、冬休み後の一日を終えたのです。
しかし、全く持って世の中は悪いことができないようにできていて、原付に乗って自宅に帰ると父から、
「おい、お前が日中、原付に乗ってた姿を母さんが見たぞ。大学にいってないのか?」と言われ、いきなり大学に行かないことがバレてしまったのです。観念したわたしは、正直に大学に行っていないことを話しました。両親はそんなわたしを責めることはありませんでした。わたしは、今までの自分の辛かった思いや、大学に行かなくなった経緯を全て親に話し、後ろめたさを吐きだした安堵感と敗北感で喉元からわき出す嗚咽を止めることができず、涙を流したのでした。そして、それと同時に自殺への思いをますます強めていったのです。
わたしは今月中、つまり一月中に自殺することに決めていました。自殺の日は以前より決めてありましたが、その思いは強く弱まることはありませんでした。わたしは1月10日の深夜を自殺の日と決めていたように記憶しています。そして、1月10日の夜が来ました。厳密に言えば日が代わり1月11日の深夜です。両親は寝静まっていました。わたしは布団から出て、ノートに遺書を書きました。遺書には「今までありがとうございます」も「すみませんでした」という言葉も書かず、「自ら処決する」とだけ書きました。最後に、わたしは子どもの頃のアルバムが見たくなり、生まれた時から保育園辺りまでのアルバムをドサッと持ってきて1ページ1ページ丁寧に見ていきました。父、母がわたしを抱き上げている写真、兄と一緒に写っている写真等がありました。わたしにも、こんなかわいらしい子どもの頃があり、その子が今まさに命を断とうとしている。そんなことを思いながらアルバムを見ていたわたしは、どうしようもない悲しみに襲われ、錯乱でもしたかのような叫び声をあげたい気持ちになりました。そして、全てのアルバムを見終わった後、わたしは命を断つために以前より自殺用に買っておいた小型ナイフを引きだしから取り出したのです。わたしは、自殺するときは、頸動脈を切断して出血多量でこの世を去ろうと思っていたのです。わたしは小型ナイフを左首に押し当てました。わたしの記憶ではナイフを力一杯横に引っ張ったように思うのですが、もし本当に引っ張っていれば確実に頸動脈は切断されたと思いますので、わたしの記憶違いかもしれません。横に引き裂こうとしたけれども恐怖のあまりできなかったのでしょう。わたしの首には傷痕は一つもありませんから。わたしは自殺ができないことがわかると死への恐怖から解放された安堵感と、生の苦痛からの解放の最後の手段が断たれた絶望から、頭を抱えて床に突っ伏し、全身を力一杯に硬直させ、身を震わせました。わたしは、その夜は疲れて深く眠りに落ちました。
親に学校に行っていないことが知れたわたしは、堂々と?学校に行かなくなりました。ただ、毎日何をするわけでもなく、自宅で無為な日々を過ごしていました。そんなわたしを見かねた親は、留年をしてもう一度大学生活を再開することを勧めました。何度も何度も親と話し合ううちに最初は頑なであったわたしの気持ちも徐々にですが柔軟になっていき、留年してもう一度大学生活を再開しようという気持ちを固めることができました。 3月になると大学より留年生を対象とした新学期に向けたオリエンテーションの通知が自宅に届きました。わたしは迷うことなくオリエンテーションに参加しました。オリエンテーションの当日の朝、学校に行く前にわたしは鼻歌を歌ってたそうで、ちゃんとオリエンテーションに行くかどうか心配していた親は、その鼻歌を聞いて非常に安心したと後で語っていました。1時間弱電車に乗って8ヵ月ぶりに登校し、指定された教室に入ると、留年生が5,6人程既に席に座っているのが目に入りました。その中に女性が一人交じっていたのですが、教員の一人が思いやりのある優しい言葉をかけているのが聞こえましたので、ひょっとしたらわたしと同様に何かしらの理由があって不本意ながらも留年してしまったのかもしれません。留年生達の雰囲気を見ると、不思議なことに遊んでそうな学生が一人もいないのです。みんな、どちらかというと真面目そうな学生ばかりなのです。真面目さ故に周囲の雰囲気に上手く溶け込めず適応ができなかったのかもしれない、わたしはそう直感しました。そんな思いを胸に秘めながら、わたしは無事オリエンテーションを受け、大学生活への再開に向け心の準備をしていったのです。
4月になると大学の授業が始まりました。わたしは21歳になっていました。周囲の同級生は当然、高校を卒業しまたばかりの新入生ばかりです。年齢も周囲よりも高いので、なんとなく自分だけが浮いた感じもしないでもなかったのですが、わたし自身の心の処理としては勉強だけに専念しようと思いました。キャンパスで元サークルの部員や昨年の同級生と顔を合わせることにビクビクしながらも、わたしは勉強だけに専念しようと通学に徹しました。そうして、孤立した通学を続け学期末試験も終了し、前学期を終了することができました。しかし、2ヶ月間の夏休みを終えると、わたしはどうしても大学に通学することができなくなりました。大学に行くことで孤立した惨めな自分を晒すことが恥ずかしく、情けなく、そして何よりも恐ろしかったのです。我慢の通学はやはり長続きするものではないと、わたしは痛感し、そして学校にも行かず自宅に引きこもる生活へと逆戻りしたのでした。
除籍処分今回の挫折によってわたしが大学に復学することはなくなりました。親は再三、わたしの復学を願って説得を試みましたが、わたしにはもう復学する気力は消え失せていました。大学から送られてくる授業料支払いの通知だけがわたしが引きこもりながらもまだ大学生であることを意識させてくれる唯一の存在でした。しかし、それも長くは続きませんでした。わたしが復学する意志がないことをがわかると、親はもう授業料を支払うことはしませんでした。そして、授業料支払いの通知が何度か来た後、最後には除籍処分の通知が送られてきて、わたしの大学生活に終止符が打たれることになりました。わたしは除籍処分となることで少なからずショックを受けましたが、反面大学との関係が切れることによって安堵感も覚えました。 ここで、除籍処分について説明しますと、除籍処分とは退学とは異なりわたしがその大学に学籍があったという事実すら抹消するという制裁的意味合いの強い処分です。この除籍処分によって、わたしが近い将来社会復帰を目指す時、社会復帰を遅らせる要因になろうとは、その当時のわたしには思いもよりませんでした。
ここで、わたしが大学に行けなくなった理由を詳しく説明したいと思います。わたしの性格は、内向的、頑固、短気、真面目です。こういう性格のわたしは集団に溶け込むことが苦手で、集団の中に身をおいてもあまり楽しいと感じません。偽りや嘘が極端に嫌いで、曖昧さで成り立っているような人間関係が大変苦手です。こういう性格ですので、自由な風土の大学の雰囲気にはとても馴染めないものがあり、かといって自我形成の不十分であったわたしは自分の道を切り開く強さも持ち合わせてはいませんでした。わたしは孤立することに対して激しい苦痛を感じるとともに、自分の生きる方向性も見失い、抜き差しならない心理状態へと追い込まれていったのです。多くの学生もわたしと同様に自分の道を自分で切り開く強さは持ち合わせてはいないと思うのですが、集団の中の人間関係に馴染むことで当面の苦しみを回避する処世術を身につけているのかもしれません。わたしにはそれができませんでした。わたしは何もかもが嫌になっていました。そして、劣等感の塊になっていったのです。
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