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道草  引きこもり・ニートの場
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プロフィール

初めまして、夜桜です。
夜桜は現在、障害者の自立支援を仕事としていますが
わたし自身、社会に上手く適応できず、引きこもり・ニートの時期がありました。
社会から隔絶された空白の時間は失うもの少なくなく、失望の日々でした。
時には失望極まり自ら命を断つことさえ脳裏をよぎることもありました。
しかし幸いにも実行に至らず、今、ここに生きています。

このブログのタイトルは「道草」ですが、
引きこもり・ニート生活の全てを「問題」として否定するのではなく、
自分自身を見つめるためのモラトリアム(猶予期間)としての道草、
そしてモラトリアムを通じて人は道草のような逞しさを身につけていくものだという
夜桜の経験に基づいて命名致しました。
したがって、引きこもり・ニート生活に苦しまれる方たちの交流の場として
利用していただけたらと思い、
このブログ、「道草」を立ち上げた次第です。


年齢: 30代
仕事: 福祉職
趣味: 射撃、狩猟、読書(主に思想、哲学、文学)、一人旅
好きなアーチスト: 長渕剛、中島みゆき              

夜桜ひきこもり自伝はこちらへ

現在、道草 引きこもり・ニートの場から引越し中です。
# by yozakurawaryo | 2010-10-11 21:32 | プロフィール
休日
今日は仕事で休みで午前は部屋の整理をして過ごす。
午後より、「引きこもり作品展」に掲載する「落書き?」をいろいろ探すが、
なかなか良いのが見つからない。
でも、落書きではないが、神社でちょっぴりいいのが見つかったので明日にでも掲載しようと思う。
「引きこもり作品展」は今のままでは不便なので、近日中に新しい形式に変更する予定。
午後は松本城でそば祭りがやっているようなので、見物に行く。
外人さんも含め多くの人でごった返していた。あ~、もう後は寝るだけか。
明日は仕事だ。
人間相手の仕事には休日もなしか。
とにかく明日起きたら、8時間は集中して溜まったデスクワークを処理しよう。
 夕食はけんちん汁を作って食べた。醤油の加減が丁度良く美味しく食べられた。
シメジが売っていなかったのとこんにゃくを買い忘れてしまったのは残念だった。

さて、これだけだと、楽しく一日が終わったように思われるかもしれないが、そんなことはない。
俺がここで書くのは俺の生活のほんの一部分でしかない。
俺の心には留めておくことのできない怒りがある。
その怒りをここで書くことは適してはいない。
俺は俺にとってもっとも重要なことがなかなか他者には理解されにくいものであることを知っている。
故に書けない。
俺には今後、どうしても決着をつけたいと思っていることがある。
「なぜ?」という理由は俺にもわからない。
今後、起きるであろう出来事が、遠い将来笑って話せる日が来たらと願う。
どうしてもやらなければならない。
俺は善人ではない。
# by yozakurawaryo | 2010-10-11 00:38 | 日記
ノーベル平和賞
ノーベル平和賞に中国の民主運動家・劉暁波氏が受賞したそうだ。
劉氏は天安門事件に関わったりインターネットで中国政府を批判したりしたため、
中国政府により投獄されてしまった政治犯だ。
言論の自由を認めない中国政府に対して言論の自由を求め活動する活動家に賞を贈るノーベル賞。
中国政府の言論弾圧には不快な思いを感じざるを得ないのだが、
ノーベル平和賞には特定の思想のみを是とする偏りを感じないでもない。
俺個人としては言論の自由は認めるべきだと思うが、
言論の自由が絶対的な普遍原理とまでは思わないし、それは一つの思想でしかないと思う。
政治的に対立している一方にあえて賞を贈る行為には、
やはり純粋に平和的行動に対する賞というよりも、
強い政治的意図というか賞を口実にして権力側を暗に批判しているように見えなくもない。
新聞なんかを読むと、受賞者の選定に肯定的なのだが、選定に疑問を持ってしまう俺は偏屈なのだろうか。

よく思いだしてみよう。
いかなる独裁者も政権を奪取するまでは国民に自由をもたらすものと期待され、
国民からも歓迎された英雄だった。
ノーベル平和賞受賞者が真に世界に平和をもたらす人物であるかどうかは誰にもわからない。
# by yozakurawaryo | 2010-10-10 00:17 | 日記
HPの編集作業
今日は休日だったが、一日中PCにへばりついてHPの編集をいろいろしていた。
「引きこもり掲示板」の作品応募は新コンテンツ「引きこもり作品展」に全て移動させた。
また、家族向けの「引きこもり家族の掲示板」も新コンテンツとして追加した。
「引きこもり作品展」の動画「老老介護の末の殺人」のバックの曲の歌詞の冒頭を
そのまま検索エンジンにかけて調べたら、
KOKIAというアーチストの「ありがとう」という曲であることがわかった。
また、引きこもり作品展だが、一つ追加してある掲示板からの抜粋をそのまま写真を撮って掲載した。
俺は絵画や芸術写真が好きだが、
それよりも他人の評価や目を意識せずに書いた「落書き」のようなものに感動することがある。
例えば、展望台の壁に書かれた落書き、都会の高架線の柱に描かれたヤンキー達の落書き、
七夕の日の子どもの書いた短冊、神社に祭られた数多くの人の願い事等、
稀に心を揺さぶられるようなものがある。芸術のような崇高さではなく、
生きた人間の本音が語られてる思いがする。
そういった、何のてらいもない、純粋な表現をこのサイトでも今後掲載していけたらなと思う。
# by yozakurawaryo | 2010-10-07 22:58 | 日記
無題
あ~今日も一日が終わった。
今週は、休みがとれそうにないので、仕事づくめの一週間になりそうだ。
後4日、仕事をすれば日曜日に休める。
休みは何をしようか。射撃にでも行こうか、滝めぐりにでも行こうか、それとも部屋の中でじっとして過ごすか。 ここ最近、ずっと哲学者のカールヤスパースの「哲学的世界定位」と言う本を読んでる。
図書館にも置いてないし、本屋でも注文できない本なので、アマゾンで買った。
科学にしろ行為にしろ限界というものがあるわけで、その限界にぶち当たった時、
人間は実存へと超越するとか。わかるようでわからないが、なんだか超越という表現はすごそうだ。
俺は哲学書読んでも、一向に賢くならんので、すでに限界きてる。
浮世離れはしても超越はしない今日この頃。
# by yozakurawaryo | 2010-07-13 22:38 | 日記
北海道旅行
お盆は実家に帰らず北海道にでも旅行に行ってこようかと思っている。
フェリーに乗って小樽、美瑛町、札幌なんかを見物できたらいい。
フェリー、民宿の予約は先日行い、今日、レンタカーの予約も終えた。
これで準備は整った。後は道路地図を頭の中に叩き込んでおく。
ところで、今でも時々、引きこもりだった時期のことを思い返すことがある。
もう就職して4年経つが、引きこもりだった頃と曲がりなりにも社会適応している今とは、
何も変わらずわたしはわたしのままでいる。
わたしはわたしのままであるのにも関わらず、記憶の中のわたしは蜃気楼の如く揺らいでいる。
「あれはなんだったのだろうか」と不思議に思い、自問自答を重ねていくのだが、
あの悶絶するような苦しみ、不安、恐怖がどこへ立ち去って行ったのか、
今のわたしはその行き先を知らない。
きっと永久に答えのない問いをこれからも問い続けていくことになるのだろうが、
わたしはそこに不思議な充実を感じる。
どうやらセンチメンタルは自己を見失いがちの現在の中で、
未来には期待を、過去にはノスタルジーを見つけ出す泉らしい。
# by yozakurawaryo | 2010-07-12 21:49 | 日記
ブログスタート
引きこもりのみなさん、はじめまして。
管理人の夜桜と言います。
本日より引きこもりサイト「道草」をスタートさせたいと思います。
この夜桜日記では特別構えることなく、夜桜の日々の生活や趣味なんかを
思いつくままに書き込んでいこうかなと思います。
今はまだ道草は簡素な構成になっていますが、
今後いろんな興味深い項目も増やしていこうと思ってます。
社会との接点が少なくなりがちな引きこもり・ニートの方の交流の場になれば幸いです。
# by yozakurawaryo | 2010-07-11 21:45 | 日記
夜桜ひきこもり自伝 Ⅰ 
生い立ち

1970年代生まれのわたしは愛知県岡崎市で生まれました。
岡崎市は徳川家康の生誕の地で観光地として岡崎城があり、人口30万人の中都市です。
八丁味噌なんかが特産物として有名です。
家族は父、母、兄がおり小学生の頃に祖母(わたしが大学生の頃に他界)が同居するようになりました。
父はわたしが中学生の頃、今まで勤務していた貴金属店を辞め独立しました。
母も自宅にて子ども達にピアノを教えることを仕事としていました。
兄は高校卒業後、アメリカへ留学し、卒業後は東京で就職しました。
わたしはと言いますと、現在は長野県松本市に在住しております。
わたしの家族は、世間の目を気にしたり体裁を重視するような雰囲気の家族ではなく、どちらかというと自由な空気が家族内に充満していたように思います。
受験勉強を強いられたり、付き合う友人を限定されることもありませんでした。
家族が仲悪くなることもなく、口喧嘩や口論があったとしても一時的なものものとして終わり、
深い確執に至るようなことはありませんでした。
わたしの家族は社会的地位や貧富によって人づきあいのあり方を変えるようなことはなく、
そのこともあって常に自宅には老若男女、国籍を問わずいろいろな人が数多く客人として遊びに来ていました。ですから、どちらかというと楽しい家族であったと思います。
なぜ、こういう家族でわたしが引きこもりになってしまったのか、今だにわたしにもわかりません。 
       
さて、そんな家族の中で育ったわたしですが、わたしの性格は内向的で真面目なようです。
学校でもあまり目立つ方ではなく、少し天然ボケが入っていて浮いた存在でありました。
この傾向は今でもあり、わたしは集団やグループの中でのコミュニケーションが苦手です。
保育園、小学校、中学校とそれなりに友人はいましたが高校入学を境に友人は少なくなっていきました。今は友人と呼べる人は一人もいません。
部活動は小学校はバスケットボール、中学校は野球(レギュラーにはなれない)をやっておりまして、高校では弁論部に入部し、多少文章が上手であったせいか学校代表として弁論大会にでたことがあります。
高校までは少々風変わりなところはあるものの、傍目には普通に学校生活を送れており、
親や教師を困らせることはなく、担任教師の評価も決して悪くはありませんでした。
しかし、わたしの心は常に自分に対して自信を持てず、劣等感を胸に秘めていました。
わたしはいかなる人間よりも劣っていると感じており、
わたしの家族もいかなる家族よりも劣っているとも感じており、
わたしは生まれ持っての劣等人間だと思っていました。
そして、わたしはこの生い立ちにおいて第一次反抗期も第二次反抗期もないいわゆる「良い子」でした。 
そんなわたしが「良い子」ではなくなったのは高校を卒業し大学に入学してからのことでした。

岡崎城

大学入学

わたしが引きこもりへと至る発端は大学を中退したことから始まったように思います。わたしは高校卒業後、工業大学に進学し機械工学を学んでいました。機械工学を学んだからといって特に機械いじりに興味があるわけでもなく、将来機械屋になりたいという希望もなく、ただ「なんとなく」という理由だけで進学しました。しいていえば、数学や物理が比較的得意科目だったということが挙げられるかもしれません。入学したものの、何かしたいこともなくアルバイトをしてキャンパスライフを謳歌したいという欲求も薄く、ただただ難しい機械工学の講義を受け、落ちこぼれないように必死についていく毎日でした。わたしは、子どもの頃から空手をやっており有段者ということもあって、空手部に入部したのですが、そのクラブ活動のみが無味乾燥な大学生生活の中の潤いだったと記憶しています。「自分は何をすべきなのか」「自分は何がしたいのか」「こんな生活は自分が望んだものではない」と悶々とする日々が続き、1年生の夏休みが終わると、こうした苦悩は極まり機械工学ではなくもっと別の分野の学問を学びたいと言う欲求に駆られるようになりました。今でも、鮮明に記憶しているのですが、わたしが受けた最後の講義は「生産プロセス」という講義で、この講義を終えた後、「退学しよう」とはっきり決意いたしました。それ以降は講義にでなくなり、学校には部活だけに出てくる毎日になりました。しかし、そんな毎日は長続きするはずもなく、部活からの帰りの電車でばったり級友と出くわし、「最近、講義にまったくこないが一体、どうしちゃったんだよ、、」という話になったのです。こういうシチュエーションというのは、穴があったら入りたい心境になりますね。でも、入る穴もなければ逃げ出すこともできないので、「なんだかアメリカ旅行に行こうと思ってね」となんだかわけのわからない理由を話していました。結局、講義は全く出ていないのに部活だけは出るというのも、やはり人目が気になるもので、部活も辞めることになりました。しかし、部長に直接会う勇気もないため電話で学校を辞めると伝えたんですね。部長の「えーー!」という電話の向こうの驚きの声を今でも覚えています。講義も部活にも出なくなったものの、退学届を提出する勇気もなかったので、そうした臆病さのために籍だけは大学にありました。

浪人生活

こうして大学には全く行かなくなったんですが、わたしには別の分野の勉強を大学でしたいという気持ちがありました。歴史小説を好んで読んでいたこともあり、歴史学のある大学に再び入学して勉強したいという気持ちがあったんですね。そのため、自宅で浪人することを決め、参考書を買ってきて受験勉強をする毎日になりました。その年の受験はもう間に合いませんから翌年の受験に備えて猛勉強をしました。そして、大学から留年通知が来たことをきっかけに教務課に退学届を出すことにしました。これで完全に大学とは縁を切れ、浪人生活に専念できる条件が整ったわけですが、わたしは予備校に通おうとはしませんでした。理由は、人の集団の中に入っていくことに不安と恐怖を覚えたからなのです。極度の不安と恐怖でした。自分の部屋だけで一人で勉強している環境が変わることが何よりも嫌でした。親からも予備校に行くよう再三言われましたが、わたしは結局は予備校には行かず、部屋の中で一人で受験勉強をすることにしたのです。                                                                                     しかし、一人で自宅で受験勉強をするというのは、非常に大変なもので全て自分の意志だけにかかっているのです。モチベーションを維持することは極めて困難で、何度も勉強を放り出し自宅でブラブラ過ごす状態になってしまうこともあったのですが、その度に家族の励ましもあり紆余曲折しながらも受験勉強を維持し、無事大学受験にも合格することができました。ただ、歴史学部が第一希望だったのですが残念ながら不合格となってしまい、国際関係の学科に合格して落ち着いたという感じです。しかし、それでも、わたしにはこの宙ぶらりんの生活から脱出して大学生活を再チャレンジできることに喜びと安堵感を感じました。家族もまた、わたしと同様に大変喜んでいました。

大学生活                                       

やっと二度目の大学生活への切符をつかんだわたしは、4月より県内の大学へ下宿生活をしながら通学を始めました。この時点でわたしは20歳になっていました。周囲はみな現役大学生のため、わたしは他の学生よりも2年遅れての再スタートとなったわけです。下宿先も昔風の古いアパートで、同じ大学に通うM君とも親しくなり、放課後は一緒にカラオケに行ったりお互いの部屋を行き来したりして、しばらくはそれなりに楽しい生活だったと思います。また、趣味で音楽もやってみたかったのでロックバンドのサークルにも入りました。友人作りの苦手なわたしは、サークルに所属することで何かしらの人間関係を作りたいという思いもありました。しかし、このサークルの活動も長くは続くことはありませんでした。

入部~退部

さて、このロックバンドサークルも3か月ほどで退部してしまったのですが、どうにも合わないものがありましたので、辞めたことには後悔はしていません。入部するには儀式みたいなものがありまして、「入部の意志を確認する」ということで、会議室に呼ばれ先輩部員数十名に囲まれ、椅子の上に立たされ、怒鳴り声での自己紹介を求められました。表情とか声の大きさで「やる気」を見るということらしいのです。そして、怒鳴り声で自分の名前を最初に言うと、間髪入れずに周囲の先輩達から「声が小せぇ!ふざけんじゃねぇよ!!もっとでかい声だせぇ!」と次から次へと罵声を浴びせられます。罵声を浴びせるのが目的らしいので、どんなに大きな声をだしても怒鳴られます。そして、それ以上の大声を出すなんてことは人間の声帯の構造上無理ですから最後には拍手されて入部が許可されるという段取りです。ですから、わたしもこれは儀式だからしょうがないということで、大声を出して入部することにしました。それに、同じ学部に友人が一人もいなかったものですから、友人が欲しかったというのも理由の一つでもありました。しかし、こういった儀式が、以後、度々あり、どうにもこのサークルのノリについていくことができないため、3カ月で退部することにしました。

不登校

さて、大変な苦労をして退部することができ、しばくの間は解放感があったのですがそれも長く続くことはありませんでした。退部はできたものの大学には在籍しているわけですから、部員とは顔を合わせることがあり、苦痛でもありました。また、サークルから解放されると同時に友人のいないわたしはキャンパスの中で孤立することになりました。ある程度、自立した大人にわたし自身成長していれば、自分なりの目標や趣味を見つけて充実した学生生活を送ることができたと思うのですが、当時のわたしは充実したキャンパスライフを送るにはあまりにも未熟でした。ただ、ひたすら孤立感に苛まれ孤立していることのへの人目も気になり、大学に通学することで自分がいかに惨めで無力な存在であるかという現実を突きつけられる気持ちでありました。自意識過剰とでも言うのでしょうか。大学に行くことは苦痛しかなく、次第に授業も休みがちになっていきました。こういう時って、自分に言い訳をして休んでも良い理由を見つけ出すんです。最初は、「一度ぐらいなら休んでもいいや」と言い聞かせ休むのですが、こういうことを一度すると一度だけでは終わらないのです。休むことが二度になり三度になるという感じで抑制が徐々に効かなくなっていき、最後は捨て鉢になって「どうでもいい」と最大の言い訳をして全く大学には行かなくなりました。



大学に行かなくなると、しばらくは解放感みたいな安堵感はありましたが、やることが他になく自室で過ごすことが多くなり、テレビをあまり見ないわたしは本を読んで過ごす時間が増えました。落合信彦とかヒトラーの「我が闘争」とか金賢姫の自伝とかいろんなジャンルの本を読みました。いろんなジャンルの本を読むことでそれなりに世界も広がったような気がしましたが、生活は乱れていき、昼夜逆転の生活になるにはそれほど時間はかかりませんでした。夜から翌朝の5:00頃まで起きて本を読み、その日の夕方頃まで眠るという生活です。こういった夜型の生活になってしまうのは、世間の人達が活動している日中に自分だけが何もせず部屋に籠っていることに後ろめたさというか、惨めさを感じたことも大きな理由の一つです。みんなが活動している日中は死んだように眠ることで、わたしは惨めな自分から逃げようとし、みんなが寝静まっている夜中に起きている時間にわたしは一時の癒しを感じたのです。外から聞こえる、人々の声、車の音、日の光さえもがわたしを惨めにさせるサタンのように思えました。しかし、こうした現実から逃げきれるわけがないことはわたしには十分わかっており、わかっていながらも何もできず、無力な日々を送っていったのです。そして、逃げきれなくなった時、わたしには究極の逃避にすがろうと考えたのです。それは、自ら命を断ちきることでした。わたしは、自殺という発想を得た時、不思議な安堵感に包まれたのを今でも覚えています。自殺とは完全な敗北宣言であると同時に、生き地獄に対する勝利宣言でもあったのです。そして、引きこもり生活をしていることも、自殺願望があることも学費を支払う親は何も知らず、2カ月が過ぎていきました。                     さて、秋口から始まった引きこもり生活も気づけば雪の舞う季節と代わり、正月休みになりました。こんな状況のわたしはとてもじゃないですが帰省する気持ちには全くなれなかったのですが、かといって帰省もしなければなんだか怪しまれそうな気がして、致し方なく実家に帰ることにしたのです。後ろめたさ一杯の帰省でした。実家に帰った時の記憶は残念ながら全く残っていませんので、ここでは記すことを控えます。
正月休みが終わると、いよいよ大学の新学期が始まります。親に大学に行っていないことを話していないわたしは、家に居座ることもできず大学に行くふりをしなければならないのでした。そうです、リストラされたサラリーマンが家族にそのことを話せず、一日中公園で時間を潰すのと同じです。わたしは時間を潰す場所として図書館を選びました。大学に行っていないわたしには電車の定期券を買って大学の図書館で時間を潰すなんてことができるはずもありませんので、自宅から少しばかり離れた図書館で時間を潰すことにししました。しかしながら、図書館は10:00からの開館ですので、大学に行くふりをして朝早く家を出ているわたしには、図書館が開館するまで時間を潰す場所が必要なのでした。困ったわたしは、原付に乗り市内をグルグル回って時間をつぶしたり、隣の市である蒲郡市まで行き海なんかを見に行ったりして時間を潰しました。途中、蒲郡市のガソリンスタンドにガソリンを入れに行った際に店員より「遠くから来たなぁ」と話しかけられ、わたしは自分が大学に行かない後ろめたさから、なんだか大学に行かないことを店員に見破られたような感じがし、「ええ、、、」とだけ返事をした覚えがあります。その当時のわたしは、そんな何気ない一言にも心が傷ついたのでした。その後、岡崎市に戻り図書館で時間を潰し、冬休み後の一日を終えたのです。
しかし、全く持って世の中は悪いことができないようにできていて、原付に乗って自宅に帰ると父から、
「おい、お前が日中、原付に乗ってた姿を母さんが見たぞ。大学にいってないのか?」と言われ、いきなり大学に行かないことがバレてしまったのです。観念したわたしは、正直に大学に行っていないことを話しました。両親はそんなわたしを責めることはありませんでした。わたしは、今までの自分の辛かった思いや、大学に行かなくなった経緯を全て親に話し、後ろめたさを吐きだした安堵感と敗北感で喉元からわき出す嗚咽を止めることができず、涙を流したのでした。そして、それと同時に自殺への思いをますます強めていったのです。

わたしは今月中、つまり一月中に自殺することに決めていました。自殺の日は以前より決めてありましたが、その思いは強く弱まることはありませんでした。わたしは1月10日の深夜を自殺の日と決めていたように記憶しています。そして、1月10日の夜が来ました。厳密に言えば日が代わり1月11日の深夜です。両親は寝静まっていました。わたしは布団から出て、ノートに遺書を書きました。遺書には「今までありがとうございます」も「すみませんでした」という言葉も書かず、「自ら処決する」とだけ書きました。最後に、わたしは子どもの頃のアルバムが見たくなり、生まれた時から保育園辺りまでのアルバムをドサッと持ってきて1ページ1ページ丁寧に見ていきました。父、母がわたしを抱き上げている写真、兄と一緒に写っている写真等がありました。わたしにも、こんなかわいらしい子どもの頃があり、その子が今まさに命を断とうとしている。そんなことを思いながらアルバムを見ていたわたしは、どうしようもない悲しみに襲われ、錯乱でもしたかのような叫び声をあげたい気持ちになりました。そして、全てのアルバムを見終わった後、わたしは命を断つために以前より自殺用に買っておいた小型ナイフを引きだしから取り出したのです。わたしは、自殺するときは、頸動脈を切断して出血多量でこの世を去ろうと思っていたのです。わたしは小型ナイフを左首に押し当てました。わたしの記憶ではナイフを力一杯横に引っ張ったように思うのですが、もし本当に引っ張っていれば確実に頸動脈は切断されたと思いますので、わたしの記憶違いかもしれません。横に引き裂こうとしたけれども恐怖のあまりできなかったのでしょう。わたしの首には傷痕は一つもありませんから。わたしは自殺ができないことがわかると死への恐怖から解放された安堵感と、生の苦痛からの解放の最後の手段が断たれた絶望から、頭を抱えて床に突っ伏し、全身を力一杯に硬直させ、身を震わせました。わたしは、その夜は疲れて深く眠りに落ちました。

親に学校に行っていないことが知れたわたしは、堂々と?学校に行かなくなりました。ただ、毎日何をするわけでもなく、自宅で無為な日々を過ごしていました。そんなわたしを見かねた親は、留年をしてもう一度大学生活を再開することを勧めました。何度も何度も親と話し合ううちに最初は頑なであったわたしの気持ちも徐々にですが柔軟になっていき、留年してもう一度大学生活を再開しようという気持ちを固めることができました。    3月になると大学より留年生を対象とした新学期に向けたオリエンテーションの通知が自宅に届きました。わたしは迷うことなくオリエンテーションに参加しました。オリエンテーションの当日の朝、学校に行く前にわたしは鼻歌を歌ってたそうで、ちゃんとオリエンテーションに行くかどうか心配していた親は、その鼻歌を聞いて非常に安心したと後で語っていました。1時間弱電車に乗って8ヵ月ぶりに登校し、指定された教室に入ると、留年生が5,6人程既に席に座っているのが目に入りました。その中に女性が一人交じっていたのですが、教員の一人が思いやりのある優しい言葉をかけているのが聞こえましたので、ひょっとしたらわたしと同様に何かしらの理由があって不本意ながらも留年してしまったのかもしれません。留年生達の雰囲気を見ると、不思議なことに遊んでそうな学生が一人もいないのです。みんな、どちらかというと真面目そうな学生ばかりなのです。真面目さ故に周囲の雰囲気に上手く溶け込めず適応ができなかったのかもしれない、わたしはそう直感しました。そんな思いを胸に秘めながら、わたしは無事オリエンテーションを受け、大学生活への再開に向け心の準備をしていったのです。
4月になると大学の授業が始まりました。わたしは21歳になっていました。周囲の同級生は当然、高校を卒業しまたばかりの新入生ばかりです。年齢も周囲よりも高いので、なんとなく自分だけが浮いた感じもしないでもなかったのですが、わたし自身の心の処理としては勉強だけに専念しようと思いました。キャンパスで元サークルの部員や昨年の同級生と顔を合わせることにビクビクしながらも、わたしは勉強だけに専念しようと通学に徹しました。そうして、孤立した通学を続け学期末試験も終了し、前学期を終了することができました。しかし、2ヶ月間の夏休みを終えると、わたしはどうしても大学に通学することができなくなりました。大学に行くことで孤立した惨めな自分を晒すことが恥ずかしく、情けなく、そして何よりも恐ろしかったのです。我慢の通学はやはり長続きするものではないと、わたしは痛感し、そして学校にも行かず自宅に引きこもる生活へと逆戻りしたのでした。

除籍処分

今回の挫折によってわたしが大学に復学することはなくなりました。親は再三、わたしの復学を願って説得を試みましたが、わたしにはもう復学する気力は消え失せていました。大学から送られてくる授業料支払いの通知だけがわたしが引きこもりながらもまだ大学生であることを意識させてくれる唯一の存在でした。しかし、それも長くは続きませんでした。わたしが復学する意志がないことをがわかると、親はもう授業料を支払うことはしませんでした。そして、授業料支払いの通知が何度か来た後、最後には除籍処分の通知が送られてきて、わたしの大学生活に終止符が打たれることになりました。わたしは除籍処分となることで少なからずショックを受けましたが、反面大学との関係が切れることによって安堵感も覚えました。   ここで、除籍処分について説明しますと、除籍処分とは退学とは異なりわたしがその大学に学籍があったという事実すら抹消するという制裁的意味合いの強い処分です。この除籍処分によって、わたしが近い将来社会復帰を目指す時、社会復帰を遅らせる要因になろうとは、その当時のわたしには思いもよりませんでした。

ここで、わたしが大学に行けなくなった理由を詳しく説明したいと思います。わたしの性格は、内向的、頑固、短気、真面目です。こういう性格のわたしは集団に溶け込むことが苦手で、集団の中に身をおいてもあまり楽しいと感じません。偽りや嘘が極端に嫌いで、曖昧さで成り立っているような人間関係が大変苦手です。こういう性格ですので、自由な風土の大学の雰囲気にはとても馴染めないものがあり、かといって自我形成の不十分であったわたしは自分の道を切り開く強さも持ち合わせてはいませんでした。わたしは孤立することに対して激しい苦痛を感じるとともに、自分の生きる方向性も見失い、抜き差しならない心理状態へと追い込まれていったのです。多くの学生もわたしと同様に自分の道を自分で切り開く強さは持ち合わせてはいないと思うのですが、集団の中の人間関係に馴染むことで当面の苦しみを回避する処世術を身につけているのかもしれません。わたしにはそれができませんでした。わたしは何もかもが嫌になっていました。そして、劣等感の塊になっていったのです。

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# by yozakurawaryo | 2010-07-01 00:00 | ひきこもり自伝
夜桜ひきこもり自伝 Ⅱ
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引きこもり生活

こうして除籍処分となり社会からはみ出てしまったわたしですが、働くこともせず無為な日々を過ごすようになりました。当時のわたしには働くことは恐怖であり、求職活動ができる精神状態にありませんでした。この恐怖は怠けとか甘えとかでは説明することのできない、激烈な恐怖であり病的な恐怖なのです。わたし自身、今でもそれほどの恐怖を後にも先にも経験したことがありません。そして無為な日々を過ごすわたしに親は働くようにと促しました。しかし、わたしは頑として働くことを拒みました。もし、どうしても働かなければ生きられない状態にされたのならば、わたしは確実に自殺する道を選択したでしょう。
わたしはこの何もすることのない毎日を何かで時間を潰さなければいけませんでした。わたしは、この長い一日を読書をひたすらすることに費やしました。三島由紀夫、芥川龍之介、太宰治などの純文学から始まり、マルクス、カント、ニーチェ、キルケゴールなどの哲学書をひたすら片っぱしから読みまくりました。人間とは、社会とはどのような存在でどうあるべきなのか、なぜわたしは引きこもりにならなければならなかったのか・・・・?こうした問いをひたすら真剣に毎日毎日考えたのです。答えのでない問いをひたすら問い続け、ひたすら考えました。偽物ではなく本物が知りたいというわたしの心の底から湧き出で来る渇望がわたしを思索生活へと駆り立てていったのです。この引きこもりの生活によって、わたしと両親との距離が近くなったように思います。物理的にもそうなのですが、特に精神面において。思い出してみれば、わたしは引きこもり生活をするまでは、あまり両親とコミュニケーションをとったことがありませんでした。勿論、コミュニケーションはないことはないのですが、自分の考えや心の内を話したことはありませんでした。わたしは、考えてみれば家族を今まで信用しておらず、わたしにとって家庭とは安心できる場ではありませんでした。わたしは家族にとってどちらかというと邪魔者であり、厄介払いしたい存在だと子どもの頃より感じていました。特に親からそういう発言を聞いたわけではありませんし、見捨てられた経験も全くないのですが、わたしはそう思っていました。わたしは誰よりも劣った存在であり、わたしの家族もどの家族よりも劣った存在だと思っていました。何がどう劣っていると言うのではなく、生まれ持って劣った存在だと思っていました。通常、親というものは子どもに対して、どのような子どもであれ最後まで責任を持ち続けるものだと思うのですが、わたしはそう思ったことがなかったのです。わたしにとって親の責任とは扶養義務という法的責任が第一に思い浮かぶのでした。ですから20歳を過ぎれば扶養義務はなく、扶養しなくても親は法的に罰せられることはないので、見捨てても構わないものだと思っていました。当時のわたしには、家族を結ぶ見えない絆を理解することはできませんでした。こんなことを言うと、わたしの家族はさぞかしひどい家族なのではないかと思う方がいるかもしれませんが、まったくひどい家族ではありません。重要なのは、家族がどのような家族であったかということではなく、わたしがそのように感じる感性の持ち主であるということなのです。もしくは、わたしと家族との間のコミュニケーション上の問題から、わたしがそう感じるに至ったとも考えられるかもしれません。今のわたしには、社会が悪いとか、親が悪いとか犯人捜しをするつもりはないのですが、当時のわたしは犯人探しに明け暮れました。まず、わたしの両親は夫婦共働きでわたしは幼少の頃、保育園終了後は叔母や祖父の家に預けられることが多かったため、それが原因で引きこもりになったのだと考えました。または、家族のわたしに対する子育て上の戒めのあり方が、「そんな風じゃ社会では通用しないぞ」が決まり文句であったため、その脅しのために社会恐怖に陥り引きこもりになったのだと考えもしました。他には、周囲の人間が能天気な馬鹿者ばかりだから、悪貨によって良貨であるわたしが駆逐されてしまったとかも考えました。こういうことも引きこもりになった一因にあるのかどうかわかりませんが、少なくとも人間の本能として何かしらの原因を探したいと言う欲求があるようです。特にこの原因探しを他者に求め、他者のせいで自分がこんなに惨めになったと考えると溜飲は確かに下がります。わたしはある時は親を責め、またある時には目の前にいない社会を責めました。しかし、残念ながらこういう犯人探しは例えそれが真実であったとしても、一時的な溜飲を下げるだけの効果しか得られず引きこもりが治るわけではありません。というのは、人間は他者との関係の中で生活しているのであり、人間関係は原因と結果という単純な因果関係では語れないものだからです。つまり、もし、親が悪いと言うならば、それはわたしと親との関係性が上手くいっていなかったことが原因なのであり、社会が悪いというならば社会とわたしとの関係性が上手くいかなったということなのです。ですから、反省し改善すべきは、親であると同時にわたしであり、社会であると同時にわたしなのです。つまり自分自身に矛先を向けなければ、人は前へは一歩も進めないのです。引きこもり生活によって物理的に親との距離が近くなると同時に、会話の数も急激に増えました。特に父は、根気よくわたしを理解しようとしわたしの言葉に耳を傾けようとしていたように思います。毎日毎日、自分の生立ち、親との関係性、退学した理由について掘り下げて父と話しあいました。また、人間の生きる意味、働く意味等の哲学的問題に関しても話し合いました。哲学書を読みふけることによって養われた論理的な思考も大きな視点の転換をもたらしたように思います。このことから、わたしは論理に対して否定的な考えは持っておらず、論理は自分の感情や価値観を離れた客観的に正しい解答を導き出すツールであると考えています。つまり情報処理のための便利なツールとでもいえましょうか。こんなことをする毎日が2年ほど続きました。そして、この間、アメリカに留学している兄のアパートに家族で旅行にも行きました。こんな新しい空気もわたしの心に何かしらの変化をもたらしたに違いありません。悶々とした毎日ではありましたが、これほど物事を真摯に考え抜いた時期もありませんでした。 しかし、考えたからといって何か良い策が考えつくとういうこともなく、思考はグルグルと堂々巡りをします。わたし自身、孤独に割と強いタイプで家族以外の誰とも話さずにいる生活はそれほど苦にはなりませんでした。家族に対して暴言を吐いたり暴力をふるったことは幸いにも一度もありませんでした。ただ、将来のことを考えると、「もはやこれまで」という陰鬱な気持ちに支配されました。また、家族の友人が自宅に遊びにくるのも非常に嫌でした。わたし自身、引きこもりといっても自分の部屋に籠ることはなく、いつも自宅のリビングで過ごすことが多かったので、来客のある時は顔を合わせるのが嫌でその度に自分の部屋に逃げ込んでいました。食事の時間になると客と一緒に食事をしなければいけないのも苦でしたし、両親が社交的な性格なためちょくちょくバーベキューで多くの外国人を含めた客を呼び、わたしも一緒にいなければいけないのも苦痛でした。まず、学校にも行かず仕事もしていない無職であることが何よりも恥ずかしく、そして対人恐怖故に普通に人と話せないことを他者に知られるのも極めて苦痛でした。ここでいう苦痛とは、普通の苦痛ではなく激烈な苦痛がわたしを襲うのです。ここにわたしの病的な恐怖があったように思います。にも関わらず、なぜわたしは自分の部屋に引きこもらず、客と一緒に食事をしたのか?おそらく、自分の部屋にずっと引きこもってはいたかったのでしょうが、おそらくそうまでしてしまったら、自分の情けなさに耐えられなくなってしまうからだと思います。  

再び進学へ

こんな風な毎日が続き、わたしは先の見えない不安の中で生きていました。しかし、凍てつく冬もいづれは春が到来するようにわたしの心の氷はゆっくりゆっくりと溶けはじめてきました。わたしは引きこもり生活の中で学問に没頭したこともあり、これからも学問を続けていきたいという欲求がありました。そして、今後、何かしらの仕事に就くにしても自分のこの引きこもり体験を活かせた職種がしたいと思いました。そこで思いついたのが心理カウンセラーである臨床心理士でした。勿論、何かしらの資格を持っていなければ履歴書に空白期間のあるわたしには社会は門戸を開いてはくれないだろうという現実的な考えもありました。しかし、臨床心理士の資格を取得するには大学院の心理科を卒業していなければならず、当時のわたしの学歴は高卒でした。 今思うと、社会経験がなく引きこもりのわたしが他人様の心理相談にのるために臨床心理士を目指すというのは現実離れした感がないでもないのですが、当時のわたしは真剣でした。そこで、まず大卒の学歴を得なければならないため、進学先の大学を探さなければなりませんでした。しかし、わたしにはもう一度、受験勉強をするだけの気力はなく、なによりも早く大学に入りたいという思いがありました。そこで、通信制の大学に入学することにしたのです。親に経済的な負担をかけたくなかったこと、9月入学が可能なこと、大学に毎日通学する必要のないことも大きな理由としてありました。とにかく、通信制の大学への進学はわたしの苦手とするものを全て回避しながら、わたしの得ようとしている資格が得られる、非常に都合のよいもののように思われました。このようなわたしの希望を親に伝えると、親は全く反対せずに進学を許可してくれました。こうして、わたしは社会復帰へ向けての第一歩を踏み出したのです。しかし、以前通学していた大学は除籍処分となっているため、学籍が抹消されたわたしには在学証明書は発行してもらえないことを、この時初めて知りました。つまり、このことは除籍処分となった大学で取得した単位を通信制大学には持ち込めないため、編入学はできず、1年生からの入学とならざるを得ないことを意味しました。        

大学入学

わたしは、本屋に行き通信制の大学を調べ、心理系の通信制大学があることを知り、その大学を入学することにしました。資料を取り寄せ、形式的な学力試験(簡単な論文を提出するだけ)を受け、20万ほどの授業料を納め2000年9月より再び大学生になることになったのです。 その時、わたしは24歳になっていました。 通信教育は基本的には毎日の講義はなくレポートを書いて学校に提出し、1年に2週間のスクーリングが二度ほどあります。ですから、ほとんどが自宅学習となります。レポート作成は大学から課題が与えられ、その課題を教科書や図書館に行って参考文献を探し自分なりにまとめる作業となります。こういうことを4年間やっていくわけです。わたしは福祉系の大学の心理科であったため1,2年目は福祉全般の科目で3,4年目が心理の科目が主となっていました。通信教育は誰かからレポート提出を促されるわけでもなく全て自分のペースでやれますが反面、さぼろうと思えばどれだけでもさぼることができてしまうため、途中で挫折してしまう人が多いのですがわたしにはこのような学習方法は性にあっているらしく苦痛になることはありませんでした。学生証が自宅に届いた時にはとてもうれしかったです。状態としては依然と変わらず引きこもりなのですが、とにかく毎日やるべきことがあることがなによりもうれしかったのです。わたしは毎日、毎日、パソコンに向かってレポート書く毎日となりました。自分で文献を調べて自分なりの考えをまとめるという作業は知識はもとより、物の見方、考え方、論理能力を養うのには最適です。わたしの現在の福祉に対する考え方の根本はこの通信教育によって培われたと言っても過言ではないでしょう。もし、全日制の大学に進学していたのならば、また違ったものになっていたのではないかと思います。そして、名古屋で行われる年に2回のスクーリングも 挫折することなく全て通学し単位を取得しました。スクーリングの多くは社会人学生でした。ほとんどが福祉の現場で働いている学生で、社会福祉士や臨床心理士の資格の取得を目指している人達ばかりでした。 そしてこのスクーリングは本当に久しぶりに人の集団に接する機会ととなりました。今まで全く人と接してこなかったわたしにとってこのスクーリングはとても不安で、とにかく苦しくしんどかったです。 講義を受ける以前に、人の集団の中で過ごすことに多くのエネルギーを費やしました。反面、わたしの物の見方、考え方は極めて高く評価されたようです。おそらく、引きこもっている間はずっと読書や思索に費やしたことが、思考力を深めた主な理由だと思います。

アルバイト

2年目の夏、わたしはヤマト運輸で短期アルバイトをしました。お中元の時期に、短期バイトを募集していたので応募して面接を受け採用が決まりました。 アルバイトをしたのは、 通信教育をしているとは言うものの実際の生活は引きこもりであることに不安を覚えたからです。わたしにとってこの短期バイトは社会復帰のための就労訓練的な要素が多分にありました。今だに覚えているのですが、わたしが長い引きこもり生活の中で忘れてしまっていた社会性があります。それは「挨拶」することです。バイト第一日目に出勤した時に挨拶もせずに店の中に入っていったためいきなり注意を受けました。注意を受ければ挨拶をしなければいけないことぐらいわたしにもわかるのですが、頭でわかっていることと実際に挨拶をすることとは異なり、挨拶は習慣として身につけていなければ挨拶の一つもロクにできないのです。わたしは25歳にもなっているのにも関わらず注意をされて、「ああ、、、、はい。。」としか言えませんでした。仕事内容は単純で宅急便のトラックから荷物を出して行き先別にカートに積みこむだけです。しかし、仕事内容は単純なのですが、それすらもわたしは最初躊躇しました。荷物を積むコツとしては、重い荷物や堅い荷物は下に置きその上に軽い荷物や柔らかい荷物を置くこと、隙間がなるべくでないように荷物を積んでいくことが効率良いのですがこんな簡単なことさえ当時のわたしには察しがつかなかったのです。こんなことは仕事の経験がなくても日常の生活経験があれば簡単に察することができるものなのですが、引きこもり生活によってロクに生活経験もしてこなかったわたしにはこんなことさえ察しがつかないのです。しかし、同僚のアルバイトは4人いたのですがフリーター、高校生、不良、中年の人の良いおばさんで良い人ばかりでしたので、わたしの社会性のなさはそれほど悪い感情を持たれることはなく、心地よく仕事をすることができました。しかし、体力的には真夏ということもあり猛烈にきつかったです。たった3時間のアルバイトなのですが、とにかく大量の荷物を運ばなければならないため、腰を痛めますしとにかく体力を使うため仕事が終わるとグッタリしました。 また、お中元の時期なので、あまりにも荷物が多い時には日中に呼び出されて一人で炎天下の中を仕事することもありました。 わたしが日中、家にいて時間があることをけっこう会社も利用してたかな?とも感じましたが、それでも、会社がわたしを必要としてくれることに喜びを感じ、短期バイトとはいえ文句の一つも言わず必死に働きました。わたしにとってこの短期バイトは就労訓練でしたので、とにかく必死でした。そして、このアルバイトはわたしにとって充実したアルバイトとなりました。1か月の期間が終わり、口座に5万円の給与が入ったいるのを確認したわたしは、初めて自分で金を稼ぐことができたことを実感し喜びに満たされました。   

アルバイトⅡ 

11月になるとお歳暮の時期で今度は日本通運の荷物運びの短期アルバイトに応募して採用されました。日本通運の荷物運びはヤマト運輸と違い、トラックから荷物をおろすのではなく、ベルトコンベアから流れてくる荷物をカートの中に入れていく作業です。体力的にはかなり楽でしたが、 自分が大きな機械の一つの部品になったような気持ちになり、周囲には20数名の同僚がいるのにもかかわらず、わたしは孤独感を感じました。働くというよりも働かされていると言う気持ちになりました。 しかし、短期バイトということもあり途中で辞めることなく終えました。 ヤマト運輸の時もそうでしたが、こういう職場というのは本当にいろいろな人が集まってきます。年齢も若者から高齢者までいますし、真面目そうな人もいればヤンキーのような人もいる。地元の人以外にも職を転々として流れてきた人もいます。職種内容から見ても決して充実感を感じられるような仕事ではないけれども、それでもみんな生活していくために働くのでした。 そして、わたしはこのアルバイトを最後に二度とアルバイトをすることはありませんでした。                                  

大学卒業

2004年9月にわたしは大学を卒業しました。今度は留年もせずストレートで卒業し、大学から卒業証明書が送られてきた時には本当に喜びに満たされました。しかし、わたしの当初の目標は臨床心理士の資格取得であったのですが、その気持ちには揺らぎが見えました。その理由として、

(1)臨床心理士は正規雇用が少ない
(2)臨床心理士は民間資格であって国家資格ではないため将来性に不安がある
(3)大学在学時に共通科目でソーシャルワークの科目を履修したため、生活とは離れたカウンセリング室での心理療法の有効性に疑問を持った

ことが挙げられました。そしてわたしは、臨床心理士の資格取得と共にソーシャルワーカーの国家資格である精神保健福祉士の取得も考えるようになりました。大学卒業後、すぐに臨床心理士の資格が取得できる大学院を受験しましたが失敗しました。1校だけの受験でしたが、この失敗をきっかけにわたしは臨床心理士をきっぱり諦め精神保健福祉士の取得に目標を切り替えました。この目標の切り替えは意外ときっぱりという感じで自分の中では疑問がありませんでした。そして、精神保健福祉士の資格が取得できる専門学校を探し、4月より入学することにしたのです。この専門学校は全日制であるため毎日学校に通学しなければならないため、中退経験のあるわたしにはとても不安がありました。

専門学校入学

形式的な入学試験と面接試験を受け、わたしは4月より精神保健福祉士の資格取得のために専門学校に入学することになりました。形式的な入学試験と面接試験を受け、4月より精神保健福祉士の資格取得のために名古屋の専門学校に入学することになりました。 全日制ですので毎日通学しなければならず、高校のようにクラス制でしたので人間関係に心配がありましたが、予想は的中してクラスの中で孤立しました。孤立と言っても嫌われて排除されているというのではなく、わたし自身が集団に溶け込めない性質であるため自然と孤立せざるを得ないというだけのことなのですが。しかし、28歳という年齢もあるためか、孤立することにはさほど苦痛はありませんでした。 クラスメイトは半分は大学を卒業後の20代前半の学生ともう半分は社会人を経験した20代後半の学生でした。わたしは自分に負荷をかけてまで彼らに溶け込もうという気持ちはもうありませんでした。ひたすらマイペースで真面目に遅刻もせずに授業にも出ました。最後まで集団というものには属しませんでしたが、特に嫌われることもなくわたしの人柄が周囲に理解されるにしたがって、周囲もわたしに対してそれなりの付き合いをしてくれるようになりました。わたしから何か用があって話しかければ彼らも快く話してくれたし、彼らから話しかけられればわたしも快く話をしたので、わたしは浮いた存在でありながらも周囲からは受け入れられた存在であるように思いました。
さて、専門学校で行われる授業にはさほどの苦労もなく馴染んでいったわたしですが、必須科目としての実習がわたしにとってどうにも不安でした。実習は精神障害者の福祉施設と精神科病院で二回に分けて2週間づつ5月と8月に行われました。 実習で求められるのは福祉施設でも精神科病院でも精神障害者の人とコミュニケーションをとることでした。長い引きこもり生活の中で対人関係の極端に少ないわたしにとって精神障害者の方とコミュニケーションをとっていくことは大変な不安が伴いました。しかし、いざ実習をやってみますと、確かにコミュニケーションが下手なばっかりに居心地の悪いところもあったのですが、精神障害の人の方が実習生の扱いに慣れており、特に年配の方には逆に世話を焼いてくれる方もいて、大変助かりました。中には非常にしっかりしている人もいて、なぜ何十年も精神科病院に入院しているのか不思議に思う人もいました。そして、精神科病院のカギがかけられ、窓には鉄格子のはめられた閉鎖病棟に実習に行った帰りの電車の中で、このような報われない人生を送って来た人たちが社会の人から知られることもなく生きていることを思い、わたしは自分及び自分の周囲にいる乗客に対して自由を改めて実感したのでした。

こうして不安ながらも二度の実習を無事に終え、年も代わり1月に精神保健福祉士の試験が来ました。そして、試験に合格しました。しかし、資格は取得はしたものの、わたしは就職先は決まってはいませんでした。就職試験は20以上受けましたが、なかなか採用はされませんでした。静岡、三重、岐阜と他県を跨って病院を受験したのですが採用されません。縁がないだけなのか、それとも履歴書の空白期間のために採用されないのかわかりませんが、卒業式を迎えても就職先は決まりませんでした。就職先が決まらないのはわたしだけでなくクラスの大半が就職先が決まらないまま卒業式を迎えていったのです。卒業後、彼らがどのようになっていったのか、わたしは知りません。ただ、特に会社を辞めて入学した学生には、その後、苦難の道が待っているだろうとは思いました。就職活動に苦労したわたしですが、5月に長野県の病院に内定が決まりました。おそらく、わたしとしては卒業後に発行された成績証明書の評価が極めて良かったからではないかと思います。一科目を除いて全てA評価でした。こうして、わたしは現在、長野県に在住し、病院で福祉スタッフとして勤務し5年目となりました。ここにわたしの引きこもりに終止符が打たれたのでした。

最後に....

さて、引きこもりの皆さん、わたしの引きこもりに至る経緯から自立へと至る経緯の手記を読んでいかがでしたでしょうか。わたしとしては、極力脚色をせずに事実を正確に記すことに重点を置いて書いたつもりです。ですから、この手記で記された事柄は全て事実です。この事実なくしては今のわたしの人間形成はあり得なかったでしょう。そのため、この事実は今のわたしにとってかけがいのないエピソードであり、焼印のようなものでもあります。引きこもり生活の苦しみはわたしの心から消え去ることはないでしょう。この手記を読んで、共感される方もいらっしゃればそうでない方もいらっしゃるかと思います。しかし、どのように感じられた方であれ、引きこもり生活によって感じた心の痛みは共通して同じだと思うのです。わたしはこの社会の中での人との関わりのために引きこもりとなり、そして同時に人との関わりの中で今まで生かされてきました。引きこもりの問題は人によって始まり人によって終わるものと確信しています。将来、引きこもりへの理解が進み、自分が引きこもりであることを何の恥じらいもなく語り、胸を張って輝く日光を浴び、引きこもりの人も働く人も同じテーブルで談笑して同じ時間を過ごすことのできる社会となることを痛切に願うばかりです。

I have a dream.


        
# by yozakurawaryo | 2010-07-01 00:00 | ひきこもり自伝

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